二重想奇譚
チームD     凬花
柊 綾
木納 鏡人

   ◇
 夕焼けが影法師に背伸びをさせている。
 その影を追うように速めていた足をふと止める。自分以外の何者かが、こちらを見つめている気配があった。
 辺りは人影疎ら、誰もが自分を見ているようで無関心。生き急ぐ街並みは隙だらけだ。
 忍び寄る寒さを気のせいにして、再び家路へと足を進める。自然と足取りは速くなった。
「あれ、――じゃん。どうしたの、忘れ物?」
 不意にかけられた声は学生時代の友達のものだった。随分久しぶりに会った割には気安い挨拶だ。
「え、何だよ変な顔して。ついさっきまで一緒に喋っていたじゃないか」
 妙なことを言う。私は今日も朝から仕事詰めで、今帰ってきたばかりだというのに。
「でもお前、なんて言うか変わったよな。素直っていうか、飾りがないっていうか……お前、本当にあの――か?」
だからそれは私ではない、と言いかけた時――
感じた視線。二つの眼。人波の中、まるで砂漠に佇んでいるような存在感。
そこに、自分の《影法師》がいた――。


   ◇
日光が眩しくて目に染みる。睡眠不足の朝には効果覿面だ。けど、温かさよりも肌寒さを感じてしまう。今日だって布団から出るのが名残惜しく思えるほどだった。『春眠暁を覚えず』だっけ? でも、その詩には紅葉は似合わないだろう。 
そんな秋の日の朝。
昨日はどこまで進めたっけ、締切は近かったな……、レポートの進捗具合をぼんやりと確認しながらふらふらと歩いていると、隣から少女の怒った声が聞こえてきた。
「もう、いっしょに歩いているのに、レイったらぼんやりして!」
 声の主はイスカ。近所に住んでいる小学三年生の女の子。おかっぱ頭にワンピース、三つ折りソックスといういつもの恰好をした彼女は、いつも通り厳しい口調で僕に接した。
 ちなみに、どうしてイスカと一緒に登校しているかというと、途中まで通学路が同じであること以外に別の理由がある。最近、彼女は飼っていた猫のマツを探して彷徨っているのだ。実際はどこかに行ったのではなくて車に轢かれて亡くなったのだが、その事実を受け容れられないため、『マツはどこかにいったんだ』とイスカは思い込むようになった。
 そんな不安定なイスカを見かねた彼女の両親が、比較的打ち解けている僕に面倒をみてくれないか、と頼んだのだ。
「ねぇってば、あたしの話聞いているの?」
「……ん、ああ、ごめん。ちょっと考え事をしてたんだ」
「もう! レイはもっとしっかりしてよ」
「ごめんごめん。そういえば、最近僕に似た人間が別の場所で目撃されてたりするんだけどさ、イスカはどう思う?」
「え、それって……ゆうれいがいる、とか言いたいの? それとも見まちがいなんじゃない?」
「いや、でも僕の友人に『僕と話した』っているひともいるみたいだし……」
「え、ただレイがわすれているだけなんじゃない? かんちがいとか……」
「んん、そうなのかな? うーん、最近寝不足気味だし、そうかも……?」
「きっとそうだよ! もう、レイったらしっかりしてよね」
「うん、ごめんごめん」
 あれ、でも、最近ミスドなんて行った憶えがないんだけどな……、まあいいか。
 そうこうしている内に、十字路の手前に差しかかった。僕はこの先を真っ直ぐ行くのだが、イスカは交差点を渡って右側に進む。どうせなら最後までついて行ってあげたいけど、そういう訳にもいかないのだ。
「じゃあ、僕はこっちへいくね」
「うん、わかった。レイ、ありがと」
「じゃあまたね」
「うん、また」
 そう言って青信号の道路を元気よく走っていった。同級生らしき男の子を見つけたのか、後ろから声をかけて並列して歩いていく。
 うん、この感じなら大丈夫そうだ。イスカの様子を確認し終え、青に変わったばかりの信号を渡ろうとしたその瞬間。
「――――っ!」
ゾクッとした感覚がした。睥睨するかのような、恨み混じりの冷ややかな視線。あまりのことにはっと振り向いたが、そこには先ほどの少年とイスカの姿のみ。
「……まさか、ね」

   
   ◇
夕焼けが紅葉に更なる深みを与えている放課後。
少女――イスカは授業が終わって一人、帰路についていた。一緒に帰ってくれる友達がいない訳ではない。だけど、どうも一人になりたい気分だった。
 通学路の途中に公園があったので、イスカはふと立ち寄ってみる。きっとここなら……。
「ねぇマツーどこにいるの? いたらへんじをしてよ」
 少女はそう叫んだ。けど、公園には誰も居ないようで遥か彼方から自分の声が反響するのみ。
「ねぇマツ、マツぅ……」繰り返し叫んでみるも、少女の声は段々とか細いものへとなってきた。それも落ち葉とともに吹き抜けていく一陣の風によってかき消される。少女はふにゃりと膝から崩れ落ちる。
「やっぱり遠くにいっちゃったんじゃ……」
眼には涙を浮かべ、今にも頬へと滴り落ちそうになる。
――ガサッガサガサッ
 突然、後ろの茂みから音が聞こえてきた。少女ははっと驚かされ、涙も止まってしまった。
 イスカは後ろを振り向いて確認をすると、そこには人影がひとつ。薄暗くてよく見えないようで目を凝らすと、それはいつもの見慣れた姿。
「レイ……そこにいたの? もう、いじわるなんだから……」懸命に悲しみに耐えているようで明らかに声は震えている。
「いやぁ、ごめん。あまりに必死だったから声をかけるタイミングを見失ったんだ」
レイは自分の頭を掻きながら弁明する。イスカは彼の姿を見て安堵をしたその一方で、何か言葉にならない違和感を覚えた。
(……あれ、なんだろ……いつものレイとちがうような)
 何があったんだろ、とイスカは気にかけたが、レイの今朝寝不足だった姿を思いだす。
(たぶん、つかれているんだね……)
「ん、どうしたの、イスカ?」
「う、ううん、なんでもないよ。それよりあっちをさがそう!」
「そう? ならいいんだけど……じゃあ、行こうか」
「うん……」
 公園にはレイとイスカの二人のみ。それ以外には誰も居ない。だからいつも通り、二人の世界が展開されてもおかしくなかった。けれど、この日は違った。レイといつも並んで歩いているはずなのに。どこか落ち着かないのか、イスカはそわそわとしていた。
「…………」
「…………」
無言が気まずい。いつもはそんなことないのに――。イスカには吹き抜ける風の音が何か虚しく啼いている動物であるかのように思えてくる。そのなかにマツも――。ううん、そんなことは。
「……ねぇ、訊きたいことがあるんだけど」
沈黙を破ってレイが口を開いた。
「……ん? なに?」
ごく自然のことなのに、イスカの反応は何かぎこちない。お見合いで仲人が抜けて残された二人のようにどこか上の空だ。
「ちょっと気になることがあったんだけどさ、あの男の子――オシノくんってどんな関係なの?」
「⁈」
イスカは予想外の質問に虚を突かれて質問が出来なかった。
(え、どうしてオシノくんの名前が? それに、なんでレイが知ってるの?)
イリスは不審に思ったが、近所に住んでいるから別に知っていてもおかしくないだろうと片付けた。
「オシノくん? 今年からいっしょのクラスになった同級生だよ」
「ふうん、なるほど」
「でも、なんでそんなこときくの?」
「え、……ああ、よく朝に二人で歩いている姿を見かけるからね、気になったんだ」
「ん、そうだっけ?」
イスカはふと思い返してみるけど、そこまで思い当たらない。きっとレイの気のせいか何かだろう――。
 そしてまた、沈黙が二人を襲う。サクッサクッと地に足を踏み込む音の方が耳についてきて、嫌気が差したイスカは耳を塞ぐかのような素振りを見せる。
 その瞬間、足音の片割れが鳴りを潜めた。急にレイが立ち止まったのだ。次いでそれに気づいたイスカは止まって後ろを振り返り、レイの方を見る。彼女の目線の先には俯いたレイの顔。
「……ん、レイどうしたの?」
「……もう、こんなこと止めようよ、いくら探したって意味がないんだからさ、だって……」
 一呼吸置いて、言葉を続ける。何かを哀れむかのような表情を浮かべて。

「もう、マツは死んだんだから」

 イスカはレイ――を模った何か――に狂気を感じてその場からバックステップで2、3歩下がり、距離を取った。
(ちがう、これはレイなんかじゃない!)
 イスカは少し体を左に捻って背負っていたランドセルに付いている防犯ブザーに手をかけ、そのまま引き抜いた。紐から解き放たれたそれは、近所迷惑と言わんばかりの大音量で鳴り響く。そして、何が起こっているか解っていない《レイ》に向かってブザーをそのまま投げつける。全身を使って勢いよく放たれたブザーは《レイ》のお腹の辺りに当たった――はずだった。
 だけど、《レイ》の方を見てイスカは驚愕した。ブザーは体に突き当たってそのまま地面に落ちることはなく、あろうことか《レイ》の霧状の体にめり込んで、そのまま後ろの地面に落っこちたのだ。そして、《レイ》はニヒルな笑みを浮かべてじんわりと消えて行った。
(こ、こんなのありえない!)
 イスカは振り向いてその場から走り去った。
 公園には置き去りにされた防犯ブザーが、持ち主を探すかのようにその音を鳴り響かせている。


   ◇
その日の晩のこと。イスカは自宅の固定電話から連絡を取る。手には『何かあったらこの番号に』と渡された携帯番号のメモ書き。
三、四度のコール音のあと、繋がった。
「はい、もしもし、レイです」
「……あたし、イスカ」
頼りない声でそう答えた。
「イスカ? ……なんだか元気がなさそうだけどどうしたの?」
「……じつはこんなことがあったんだけどさ、あったことをそのまま話すね」
「……うん、いいよ」
 イスカは今日起こったことをそのまま話した。レイのそっくりさんが現れたこと。《レイ》の体が霧のように透けたこと。そして、《レイ》がニヒルな笑みを浮かべて消えたこと。
「……ということがあったんだけど、あれ、レイなの?」
「……話を聞く限り、それは僕じゃあないね。しかも、その時間はレポートを書くために図書館に籠っていたから」
「……そう、だよね」
イスカはそのまま電話をがちゃんと切りかけた。
「……だけど、思い当たる節があるんだ。今日の朝に言ったこと、憶えてる?」
 ……が、レイの声が聞こえてきたので、慌てて構え直す。
 そういえば、と今日の朝のことを思い出す。たしか、レイとおんなじすがたをした人が目げきされているとか。
「……で、あれから調べたのだけど、どうやらあれは《ドッペルゲンガー》と呼ばれるものの仕業らしいよ」
「ドッペルゲンガー? それってゆうれいか何か?」
「うーん、厳密にはそうではないんだけど、まあそうかな? もう一人の自分、といった方が早いかも」
「ふうん……」
イスカはおざなりに返事をして考え事に耽った。
「……よし、あたしがこのげんしょうをつき止める!」
「え、イスカ一人じゃ無茶だよ」
「だいじょうぶだって!」
「……いや、大丈夫じゃないって。だって……」
レイは何か続きを言いかけて止めた。彼女に自分自身の様子がおかしいことを仄めかすのはタブーと判断した末の選択だ。
「……だって?」
「いや、なんでもない。でも一人では危険だから僕も付き添うよ」
 こうしてレイとイスカの二人は《ドッペルゲンガー》と呼ばれる怪現象の解明に乗り出したのだった。


   ◇
 解明に乗り出す、と言っても一介の大学生や小学生に出来ることなど高が知れている。ひとまず僕たちは、そのドッペルゲンガー現象を見かけた、という噂や情報の集まる場所に行ってみることにした。
 自分以外の自分がそこにいる。まるで同一人物なのに別人のような存在。
 僕は自分のドッペルゲンガーに会ったことはないが、実際に会ってみれば多分、気持ち悪いものなんだろう。自分でなくても、目の前にいる知人が実は別人かも知れないなんて、何を信じていいか分からなくなってしまう。
 今ここにいるイスカも、もしかしたら……
「また、バカなこと考えてるでしょ、レイ」
 ジトッとした目に図星を指されて、僕は慌ててイスカをとりなした。
「ゴメンゴメン、イスカは本物だって信じてるよ。ところで、『人が変わったような同一人物』がよく目撃されてるのは、この辺で合ってるの?」
「たぶんね。会って話したこともわすれてる、会うたび人がちがうみたい……って、クラスのみんながうわさしてたよ」
「確かに僕も聞いたことがあるんだけど……いざ会ってみるとなると、ちょっと気が引けるなぁ」
 変人と進んで関わり合いになるつもりはないが、他に手掛かりがないのだから仕方がない。
 そもそも会えるとも限らないし、会ったところでその人かどうかも分からないような状況なんだけどね。
「あのぉ、スミマセーン」
 気の抜けた声が聞こえて、現れたのは女子高生だった。
 眠たげな目をしたショートボブの女の子は、制服姿の後ろに花を飛ばして、甘ったるい調子で話しかけてくる。
「困った顔してますけど、もしかして道に迷っちゃったりなんかしてます? 分かりますー、私も駅から学校までの道は覚えてるんですけど、帰り道が分からなくなっちゃって、よく迷子になっちゃうんですよねー」
「え? いや、僕たちは……」
「あ、それとももしかして駆け落ちですかぁ? 年の差とかアッツイですねー、キャー☆」
 一人で勝手に盛り上がっている。どうやら困っていた様子を見て声をかけてくれたようだが、人の話を聞くつもりはないらしい。
「あのね、僕らは……」
「おねえちゃん、もしかしてアマラさん?」
 割って入ったイスカのセリフで、僕はハッと気付いた。
「そうだよ? 晴木アマラ。なんだお嬢ちゃんたち、私のこと探してたの?」
 女子高生は飄々と頷く。
「そう、なんだけど……えっと……」
 僕は思わず口ごもった。目の前のアマラは確かに変な女の子だが、それは謂わば天然と言えるような緩さであって、巷で噂されているようなズレではない。
「おねえちゃん、じぶんじゃないじぶんがしゃべってるの、みたことある?」
「ん? あるよー?」
「あるの?」
 思いがけずトントン拍子に進む会話に、僕は逸る気持ちを抑えて問い詰めた。
「えっとゴメン、僕はレイでこっちはイスカ。今、世間で自分そっくりの別人が現れるって現象が起こってて、僕たちはそれを調べてるんだ。もし君がドッペルゲンガ―を見たことがあるっていうなら、詳しい話を聞かせてほしいんだけど……」
「うーん、そういうことなら、私は役に立たないと思うよぉ?」
 しかしアマラは、ふわふわとしたまま突然そんなことを言うのだった。
「私の『もう一人の私』は、ドッペルゲンガー? じゃなくて、カマラだもん」
「カマラ……?」
「うん。私の中にいる、もう一人の私」
 へらりとした様子は、まるで思春期の妄想を垂れ流しているようだ。危うく聞き流してしまいそうになるが、今はそもそもドッペルゲンガ―なる不可思議を追っているのだ。どんな情報も軽視すべきではない。
「カマラはね、凄いんだよ? ものすっごーく頭がいいし、私のことは絶対守ってくれるの」
「カマラ……は、君の中にいるの?」
「そうだよ? だから会いたいなら明日だねー」
 イスカの顔を見ると、どうにも判断が出来ないと肩を竦められた。捨て置くべきではないが、それほど拘るものでもない、ということだろう。
 いずれにせよ、アマラ・カマラという不思議な少女について、今はこれ以上に遣り様がない。
「じゃあ、僕らはまた別の目撃者のところへ行こうか。まだまだ行くべきところはあるんだろ、イスカ?」
「そうだね、あとは同じクラスのオシノくんとか……たしかずっと前から、知らないじぶんが、とか言ってたし……」
「あぁ、いつも一緒に登校してるあの子だね。それじゃアマラ、僕らはこれで」
「うん、ばいばーい」
 ヒラヒラと手を振るアマラと別れて、僕らは新たな情報を求めに再び街を彷徨ったのだった。
 結論から言ってしまえば、それはただの徒労に過ぎなかったんだけど。


   ◇
朝靄の空気を肺いっぱいに吸い込む。体の中が満たされた気がした。秋といえど、陽の昇ったばかりの世界は肌を切るように冷たく、清純だ。この冷たさが心地よい。
「おはよう、おねえちゃん」
 神聖な世界を汚す声がした。折角の気分を台無しにしたそいつに、私は睨むように目を向ける。黒髪おかっぱに赤いランドセル。昨日も訪ねてきたイスカとかいう女の子だ。
「きょうは、アマラさんなの? カマラさんなの?」
 答える義務はない。聞けば何でも答えが返ってくると思っている子供が私は嫌いだ。
 しかし、その無言が何より雄弁に語ったらしく、イスカは確信をもった瞳で質問を重ねた。
「おねえちゃんは、“にじゅうじんかく”なの?」
「……賢いのね、とでも言ってほしいの?」
 私の病名は、正確には乖離性同一性障害という。世間で言うところの二重人格。
 アマラという人間の人格は、眠りにつく度にカマラという私と入れ替わる。アマラは甘ちゃんだし、はっきり言ってただの馬鹿なので見知らぬ他人に見境なく親切にしているようだが、私は違う。いくらいたいけな女の子だろうと、自分の利益にもならないような情報提供をするつもりはない。
 ただし。
「珍しいかしら。人間には私みたいなのもいるのよ、ドッペルゲンガーさん?」
 人ならざるモノには、多少の興味が沸いた。アマラに害を為す様子は今のところ見られないが。
「……さいきんはよく見やぶられちゃうね。どうして分かったの?」
「昨日会った子は、会話中も常に忙しなく周囲に目をやっていたわ。ランドセルの首輪を見るに、飼い猫でも探していたのかしらね?」
「カマラさんはほんとうに、頭がいいんだね。きのう会った人とは別人みたい」
「でも私は、アマラと同じ人間だわ。貴方は違うのでしょう?」
 言い終わるより前に、懐から取り出したカッターを《イスカ》に向かって投げつける。相手が生身の人間なら無事では済まない一撃。しかし、予想通りカッターは存在を通り抜け、カラリと力なく地面に転がった。
「ひどいね、おねえちゃん。死んじゃったらどうするの?」
「酷いのは貴方の方でしょう」
 死んじゃったらどうするの? と私は精一杯皮肉に聞こえるように囁いた。
「目的も無く他人の居場所を奪って、他人の素顔を暴露して、その人が死んじゃうとは考えないの? そんなことで、それっぽっちで死んでしまうほど、人は弱くて愚かしいものよ。それとも人間がいくら死のうとも、貴方には関係ないのかしら?」
「それもあたしのせいなの?」
「当たり前でしょ。無知は免罪符にはならないわ」
 ああ、それとも……、と続けたのは、私には珍しい優しさだったのだけど。
「目的は、あるのかしら。どちらにせよ、罪深いクズに変わりはないけれど……目的を果たしたクズの方が、幾分かはマシじゃないの」
 ヒトならざるものは、少女の姿のまま黙り込んでしまった。
 最後のはなむけに、もう一言。
「……そういえば、私はアマラの記憶を持っているけど、アマラは私の記憶を知らないわよ」
 頑張りなさいな男の子、と言い置いて、私はその場を後にした。
 今後、この街で同じモノを見ることはないだろうという確信を胸に抱きながら。


   ◇
 土曜日の昼下がり。半日授業を終えて帰る生徒の波から外れ、少年――オシノは人気の少ない路へと入ってゆく。昨日の帰り道、偶然会ったイスカの頼みに応じるため。

『あしたの午前じゅぎょうがおわったら、日野公園の近くのだんちに来てくれない?』

 訳を尋ねても、イスカはいつものように微笑んではぐらかし、理由を教えず去って行った。イスカがオシノに物を頼むことはほとんど無かったので、彼は訝りながらも公園へと向かった。
 寂れた団地。建物が二棟あるだけで公園も何も無い殺風景な場所。そのような面白味も無い場所に子供たちは寄り付かず、ただ風がぴゅうと流れて行くだけだった。オシノは二棟の間の砂利道に踏み込んだ。かつては色とりどりの花を咲かせたであろう花壇は、今や雑草に蹂躙されている。
反対側の端に居たのは、イスカではなく制服姿の女学高生だった。ショートボブが風にゆらりと揺れる。顔を覆っている髪の隙間からちらりと目が覗く。半分閉じられた垂れ目は、今は険悪な目つきに映る。
「ようこそ、坊や」
 オシノは本能的に身構える。どこまでも冷たい声。相手を見下していることがここまで顕著に表れる語調。
「あのおかっぱ少女なら来ないわよ」
「……イスカのこと?」
 カマラはその質問には答えず、言葉を続ける。
「あの少女なら今、クラスの男の子と一緒に学芸会の練習をしているわ。二人っきりでね」
 少年の胸にチクッと痛みが走った気がした。カマラは片頬を吊り上げて笑う。
「醜いわね、少年。一人前に嫉妬かしら?」
「なに言ってるんだよ」
「自分で気づいていることを他人に尋ねるのね。徹底的に無駄な行為だわ」
 オシノは黙り込む。心当たりはある。ありすぎるくらいだった。

 生まれてこのかた、嫉妬ばかりしてきた。大人などはしたり顔で『みんなそんなものだ』と言うが、少年はそうは思えなかった。そもそも他人がどの程度嫉妬しているかは知ったことでなかった。
 少年は兄のことが大嫌いだった。
 完璧である兄。昔から美少年であった兄は、今や立派な美青年へと成長を遂げた。頭脳明晰、運動神経抜群。社交的で、それでいて奢らない。浮ついた様子はなく、年齢より大人びている。他人に優しく、しかし甘いわけではない。
 少年の人生は、生まれた時から眩いばかりの存在が目の前に立っていた。遠目に見れば美しい光も、間近で見れば、ただ目に痛いだけであった。
少年が光を追えば追うだけ、『もうちょっとでお兄ちゃんに追いつけるね』という評価が返ってくる羽目になった。彼の人生は完璧な化け物の後を追うべき呪縛に掛かっていた。
物心ついた時には、少年は兄を憎み、妬んでいた。

「甘いのよ」
 オシノがハッと顔を上げると、カマラは想像以上に近くに居た。
「嫉妬心を抑え込もうなんて、そんなことできると思ってたのかしら? あなたみたいな嫉妬深い人間が?」
 カマラは少年の頭に手を置き、握った。触られている感覚はしないのに、オシノは心臓を握られたように感じた。
「ほら、あなたの嫉妬心はここにいるわ」
 『ここ』はカマラのことを指しているのか、それとも痛いほど脈打つ心臓を指しているのか。少年はくらくらと目眩がした。
 ややあって、オシノはカマラの顔を見た。目の形・睫毛の生え方・目蓋の厚さ、全てが少年のものとは一致しない。しかしオシノは本能的に、この目は自分の目だと思った。瞳の奥で揺れるどす黒い感情は、生まれてこの方少年が抱いてきたものだった。生まれてこの方少年が隠し続けてきた感情だった。
 彼は確信した。間違いない、これは自分自身だ、と。これこそが自分の分身である、と。
 オシノはふふっと笑った。生まれて初めて笑った気分だった。
「兄ちゃんならこんなバケモノ生み出さなかったんだろうね」
「わかってるじゃない」
 寒風吹き荒ぶ団地で、二人は静かに笑い合う。
「兄ちゃんは完ぺきだもんね。だれのこともうらやましくなんてないもんね。だって兄ちゃんよりすごい人なんてどこにもいないし」
 オシノはドッペルゲンガーの瞳を見つめた。その瞳の奥で燃える嫉妬が、少年の目に映り込む。そして、そのような少年の様子がまた垂れ目の瞳に映し出される。合わせ鏡のように二者の間を行き来する嫉妬の炎は、静かに大きくなってゆく。
「――死ねばいいのに」
 それは兄に向けられた言葉だったのか、それとも少年自身に向けられた言葉だったのか。完璧すぎる兄の弟として、終ぞ表に出すことの無かった、どす黒い感情だった。
 ドッペルゲンガーの手が、ずず、とオシノの頭に沈んでいった。彼は吐き気がした。胸がむかつき、誰彼構わず殴りつけたい衝動に駆られた。ドッペルゲンガ―の体はどんどん少年の体にのめり込んでゆく。少年の目から涙が溢れた。
 ――いやだいやだなんでおれだけがいたい苦しいあんな兄ちゃんにかなうとでもつらいいたいいやだやめろ化物めやめろやめてくれいたい死んでしまえもういやだおれを見てやめていやだ苦しいつらいおれだっておれだっておれだって――
 胸を抑えて嗚咽を漏らす。無人の砂利道を通り抜ける風がオシノに吹きつける。朦朧としてゆく意識の向こうに見えたのは、妬み続けた兄の顔。
「兄ちゃん……」
 涙を流しながら兄を呼ぶ。ずたずたの心でも、兄を呼ぶだけで胸が温かくなる。どんなに憎くても、どんなに妬ましくても、結局のところ自分は兄のことが頼もしいのだ。その事実が悔しくて、しかしそんな兄が誇らしくて、オシノは泣いた。
 結局、どんなに頑張っても自分は兄にはなれないのだ。少年は自分の感情を受け容れ、生まれて以来初めてそれを認めることができた。


   ◇
 またある日の朝。寒さは徐々に厳しくなり、イスカが黒タイツを履くようになった。
「あ、レイ、今日はちゃんと起きてるね」
「『今日は』って何だよ」
「だって、さいきんねむたそうだったじゃない」
 レポートが一段落して、ここのところレイは規則正しい生活を送っているので、イスカの指摘は正しかった。
「ああ、確かに……一昨日レポートを提出して、ちゃんと寝れるようになったんだ」
「じゃあ、だれかと話したりしても、ちゃんとわすれないでいられるね」
「絶対にミスドなんか行ってないんだけどなあ」
レイは改めて首を捻る。イスカは「しっかりしてよー」とからかい、青信号を渡り始める。
「あ、あれマツじゃない⁉」
「待て、危ない!」
 道を歩く黒猫を見つけ、イスカは脱兎のごとく駆けだす。レイは数歩遅れてその後を追う。人間二人に迫られ、黒猫はギョッとしたように振り向く。チリンと一度鈴を鳴らして、壁を駆け登って消え去った。
 がっかりしたように黙り込むイスカの傍に立ち、レイは彼女の頭を撫でる。
「あれはマツじゃないよ、きっと。マツの首輪に鈴はついてないだろ?」
 イスカは黙って頷く。二人はいつもの通学路へ戻るべく、来た道を戻ってゆく。
 その時、背後から声が投げかけられた。
「ねこをさがしてるの?」
 振り向いた二人の目に映ったのは、猫を手にした少年だった。猫の首につけられた青い首輪を掴み、バスケットの如くだらんとぶら下げている。黒猫は少年の手から逃れようとじたばたともがいていた。
 レイとイスカは予想外の光景にぎょっとした。少年は今度は不安げに、重ねて尋ねた。
「このねこ、さがしてたんじゃないの……?」
「いや、それは人違いなんだ」
「じゃなくて、ねこちがいなの」
 二人が否定すると、少年は寂しげに眉を下げ、猫を解放した。首輪を掴んだまま猫を放り投げて。上手に着地をして一目散に逃げてゆく猫を、レイとイスカは唖然として見送った。
少年は口を開こうとしてやや躊躇い、目を伏せた。そしておずおずと目を上げて驚いたように目を見張った。覚悟を決めたように口を一度きゅっと結び、再び開く。
「おれ……おれも手伝おうか。ねこさがすの」
 レイはイスカを見つめた。決断は彼女に任せるという意思表示だった。イスカは表情を輝かせて答えた。
「ほんとう? ありがとう!」
 周囲の人間が猫探しに消極的なせいか、彼女は少年の申し出を快く承諾した。
「でも、ねこにはもっとていねいにしてあげて。マツにあんなことされたらかわいそう」
「あ……ごめん」
「ううん、手伝うって言ってくれてうれしい」
並んで歩きだす二人に一歩遅れてレイがついてゆく。この強烈な印象の少年がイスカにどんな影響を与えるのだろうか。レイは楽しみでもあり少し気がかりでもあった。


   ◇
 イスカと並んで歩く少年は、後ろをついて歩いてくる青年が気になって振り返る。近所の仲がいい大学生だと彼女は語っていたが、どうして一緒に登校しているのだろう。
羨ましい。
少年は胸がきゅっと締まった気がした。青年をじっくり見ようとすると、遠くにまたもやっとした影が見えた。それが何であるかを思い出すだけで、少年の背筋が粟立つ。
「早く行かないとちこくするよ?」
 イスカはそう言って少年の手を取った。彼女の温もりが少年の左手を通して全身に行き渡る。
 少年が再び影を見ると、それは薄く雲散霧消しかけていた。顔のあたりに笑顔らしきものが見えた気がするが、それが本当であったかどうかを確かめる術は無かった。
《了》
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